大日本帝国の轍 第8章〜第11章 軍部のクーデターとして顕在化した2・26事件。果たして2・26事件は何を意味していたのか。

数発の銃弾で日中全面戦争の発端となった盧溝橋事件

柳条湖事変から半年後、満州国が建国された。昇平の恩師の1人である岩谷悦史は、満州国皇帝・愛新覚羅溥儀の懐刀として総務庁副長官に抜擢され、日満両国の良好な関係づくりに邁進していた。 ちょうどその頃、岩谷の私設秘書であった京子と暮らし始めた昇平は、ある日突然、京子が姿を消したことに愕然とする。しかし、その行方は思いもよらぬ所だった・・・。

満州国が成立しても軍部の大陸侵出意欲には際限がなかった。熱河作戦を完了した関東軍は、支那駐屯軍と協力して、遂に万里の長城を越えて北京(北平)近郊まで軍を進めてしまったのだ。裁可を下した昭和天皇は後々まで悔やまれたというが、そこで 誕生した華北の傀儡政権、冀東防共自治政府とはいったいどんな政権だったのか・・・。

尚、中国側も日本軍の中国本土侵出に対して、対日姿勢をより一層強めることになる。

1927年(昭和2)4月に蒋介石による上海クーデターで第1次国共合作は終焉したが、日本軍部の露骨な行動に中国共産党と張学良が協調行動に出る。1936年(昭和)12月に督戦に来た蒋介石を監禁、対日共闘を迫ったのだ。西安事件である。

昇平は岩谷に呼ばれて蒋介石が幽閉された西安まで出向いて情報を収集したが、そこでわかった新しい中国側の戦略とは・・・。 

一発の銃弾で日中全面戦争の発端となったと言われる盧溝橋事件。実は銃弾は一発どころではなかった。この時、昇平は新京支局から北京支局へ転勤しており、この事件を取材することになったが、果たして盧溝橋事件の真相は如何に・・・。

また、その後に北京郊外の通州で起きた第2の尼港事件と称される通州事件。取材に行った昇平が死臭漂う通州で見たものとは・・・。それは事件の惨さだけではない。見てはいけないものを見てしまったのだ。

一方、日本国内に目を向けると、満州事変の翌年に起きた5・15事件をきっかけに政党政治は終焉、軍部の台頭と共に国家主義運動の気運が高まってきた。天皇機関説に反発した国体明徴運動などはその一例である。最終的に軍部のクーデターとして顕在化したのが2・26事件だ。

東京合同新聞社政治部では各担当を都内随所に派遣して取材させるが、2・26事件はいったい何を意味していたのか。股肱の老臣を亡くした陛下の怒りは頂点に・・・。
その後の日本の政治形態が戦時体制へ傾いたのは何故か。

政治部では連日の会議で因果関係を究明した。

   
  • 1937年(昭和12)7月9日 東京朝日新聞 夕刊 盧溝橋事件を伝える新聞
  • 蒋介石が逗留した華清池。ここで西安事件が起きた。玄宗皇帝と楊貴妃のラブロマンスでも有名な場所である。
  • 日中全面戦争のきっかけとなった盧溝橋事件の現場。写真は永定河にかかる盧溝橋(別名・マルコポーロ橋)
  • 代々木公園近くにある2・26事件の慰霊塔
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